新しい自己肯定感を育てたい!
発達障害当事者は脳機能の障害を持っています。
注意や努力ではカバーしきれない生き辛さがあります。
特に発達障害に気付かず過ごす期間は根深い「自責の念」が育ちます。
かつての私は何度も「自責の念」に押し潰されそうになり、死にかけたものです。
みんなとは違う「特殊な自分」に苦しみ、「人付き合いの違和感」から毎日のように
自信は擦り減り続け 自己肯定感って何だったかな と思うほど、
かつての私は自分を思いやることを忘れていました。
未だに私は当事者同士の「不自由あるある」「不注意あるある」的な話題を望みません。
それらの話題を否定している訳でなく、
すんなりと共感出来てしまう自分がいることで心が重くなるのです。
「発達障害=限りない不自由さ」なのではとO-GESAに考える自分を知っているので。
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子供の頃は漠然と『自己肯定感』がありました。
無自覚の発達障害に混乱している内にJIWARI&JIWARIと『自己肯定感』は擦り減り、
気付いた時には跡形も無くなっていたのです。
欲しいのか?欲しくないのか?やはり『自己肯定感』は欲しい!
そんなこんなで私はもう長いこと忘れていた『自己肯定感』が再び欲しくなったのです。理由は楽しく暮らしたいから。その為には『自己肯定感』がとても必要になったというWAKEです。
擦り減って無くなった『自己肯定感』を取り戻すより、
新たに『自己肯定感』を育てる方法が私には向いていた。
つまり【傷付いた対象や出来事に再び立ち向かい真正面から克服する】のではなく、
出来るだけ【今まで未知だった関心事や好奇心を毎日に散りばめる】方法が。
昔から自己啓発などである
【傷付いた対象や出来事に再び立ち向かい真正面から克服する方法】は
繊細さを持つ当事者には向かないのではないかと考えています。
真正面から問題を見直すことは、
苦しかった出来事を脳内で事細かに再現する必要があるからです。
その時点で悲しみ、苦しみ、苛立ちで頭がいっぱいになり、
感受性の鋭い人はさらにあらゆる苦しかった出来事を次々に連想します。
問題を解決するどころの話では無くなるのです。
ではどうすれば心は楽になるのか。
苦しい出来事を豪快に放棄してしまおうというのが私なりの結論です。
苦しかった出来事に浸り続けるよりは、
向いているのか?続くのか?意味はあるのか? なんて考えず、
思い切って無理の無い範囲で新しい楽しさを探して欲しいのです。
苦しい出来事を放棄する為に手っ取り早い方法はこれに尽きると実感しています。
もちろんそれは簡単なことではありませんし、
「それが出来れば苦労しないよ」との声もわかります。
しかし行動を起こさねば状況はなかなか変わりません。
マッチョな決意なんてなくても構いませんので、
ただただ気が向いた時に行動を起こしてみることがDAIJIだと考えています。
まずは気分が乗っている時のみ、無理をせず試してみてはどうでしょうか。
何かに没頭している時や脳内が心地いい疲労を感じている時は心の痛点が鈍ります。
晴れた日に外を散歩したり、好きな飲み物を飲んだり、
自分の気分が乗っている状況を作り出した上で、
【真正面から問題を見直すこと】 とは真逆の方法である
【真新しい喜びを突き詰める】 方法に切り替えるのです。
元々自分が持っていた興味や趣味の延長線上にある楽しさを追求することも、
完全に0の状態から今までの自分のアイデアではありえなかった楽しさを探すことも、
方法はそれぞれの当事者次第です。
私は【今まで未知だった関心事や好奇心を毎日に散りばめる】方法によって
ある程度の『自己肯定感』を育て上げる事が出来ました。
かつての目標であった『楽しく暮らしたい』という願いを叶える程度までは育ったかと。
今や『自己肯定感』は私自身の(手の掛かる、だからこそ掛け替えの無い)子供のようです。
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時々『幸せの総量は決まっている』という人生訓(?)を耳にするのですが、
もしもその言葉が本当なら当事者の一生には巨大なSHIYAWASEが潜んでいるのだろうと
予想しています。だって生まれながらに相当な不自由を持っているのですから。
果たして『幸せの総量は決まっている』という言葉が本当なのか嘘なのか。
私の余生をフルに費やし確かめてみたい。
諺や人生訓には全く的外れな言葉もありますが、
自分にとって喜ばしい言葉は疑いませんよ私は。
もし本当なら未来にはとんでもないSHIYAWASEが待つはず。
だからまだまだ死にませんし、100歳までは検証を続ける予定です。