ナンセンスな普通という考え!
発達障害当事者に生まれてツイてたことって何だろう?
それは長らく私を苦しめ続けた「普通」って感覚から、
だんだんと自由になれた事だと思う。
「普通」の対義語は「特別、特殊、異常」とのこと。
「特別」は大袈裟な感じがするし「異常」は否定的な感じがする。
だから今は発達障害当事者を「特殊」、定型発達者を「普通」という言葉で語ります。
全ての発達障害当事者を「特殊」、全ての定型発達者を「普通」と決めつけている
訳ではありません。あくまで脳機能についての話、もしくはブログを進める上での例とお考え下さい。
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「普通」って言葉や考え方はある意味で残酷だ。それは時に
「特殊」な人達を除外する言葉として日常的に使われるから。
「見えない、気付かれない、理解されない」発達障害当事者である私はそう思う。
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定型発達者が無意識に「普通」を駆使して暮らしてるのなら、
発達障害当事者の私は意識的に「特殊」を利用して暮らしたい。
自分の可能性や発達障害の生かし方を模索しながらしぶとく100歳くらいまで。
もちろん定型発達者にも発達障害当事者にも様々な人がいることを踏まえた上で、
「普通」という考えに辟易してる人もいるでしょう。
もしそんな人がいるのなら楽しげな発達障害当事者を参考にしてみては?
私は発達障害当事者を 「普通」という考え方から脱出しやすい人種 だと思っています。
なんせ生まれながらに脳機能が「特殊」だし。
自然と「普通」と「特殊」の狭間で模索する存在だからこその味や趣きがあるはず。
自身自身の考えを育てて「普通」という考え方から脱出した人達、
かつ(その人にとって)有意義に暮らしている人がいるなら、
それらの人達は発達障害の有無を問わず、私は凄い人だと思う。心から。とても。
いつかは私もそうなりたい。時間を掛けてゆっくりと。
ただただ「普通」が当然の様に刷り込まれることで残酷な面を持つ人は
発達障害の有無を問わず確かにいます。
かつての私(発達障害について無自覚だった頃)にも思い当たる部分がありました。
それは「普通」こそが素晴らしいと考える人達に蔓延る洗脳ではないかと。
決して「普通」という考え方を頭ごなしに否定している訳ではなく、
「普通」な思考が併せ持つ残酷な側面に限った話ですのでご理解を。
そして生まれつき脳機能が「特殊」である当事者は自ずと
「普通ではない人」や「困難を抱えている人」への共感力が格段に育つ気がします。
もちろん「特殊」であることのストレスが恨みの方向へ偏った場合など、残酷な例外もありますが。
これらは「特殊」な性質や思考を持っていれば定型発達者にも同じことが言えるのではないかと思います。
発達障害があろうとなかろうと、みんな各々の暮らしから思いやりを育んで
「普通」を振りかざさず、時々誰かに親切を分け合えたら平和なのにな…
とか話が壮大過ぎて収集が付かなくなってきたのでこの辺で。